2012年3月27日火曜日

元老院 (ローマ) - Wikipedia


元老院(げんろういん、ラテン語: senātus、セナートゥス)は、古代ローマの統治機関。

共和政では、元老院は建前上執政官の諮問機関であったが、名望家や現職および元職の要職者のほとんどを議員とし、また名望家は多数のクリエンテスを抱えることにより立法機関である市民集会に多大な影響を与えていたため、その実体は外交・財政などの決定権を掌握する実質的な統治機関であった。ローマを指す言葉にSPQRがあるが、これは"Senatus Populus que Romanus"(元老院とローマの市民)の略である。

元老院議員は、過去に会計検査官を務めた人物を対象に、財務官が検討した上で決められていた[1]。例外として、護民官を経験した平民は自動的に議員になれた。

新たに元老院議員となる場合、過去に議員を輩出した家系の出身者であることが有利に働いた(そのため、議員を何人も輩出する家系は次第にノビレスと呼ばれる特権階級を形成していった)。ただしノビレスの方が有利とはいっても、ノビレスであれば自動的に議員になれるわけでもなく、ましてや世襲によってその身分が継承されることもなかった。

議員の多数を占めるノビレスはノブレス・オブリージュの精神の体現者という側面が強く、そのため戦場に赴くことを厭わず、そこで戦死する者も多かった。加えて古代故に各議員の寿命は短く、また職を担えないほどに老衰した際は自ら身を引く者も多かった。そのため、元老院議員の身分は終身であるにもかかわらず、議員の新陳代謝は十分に機能していた。

ローマで要職を目指す者は、成人(17歳)から約10年に亘る軍隊経験が必須とされていた。元老院議員になった者も例外ではなく、裏を返せば元老院は、軍事及び国政に関する経験や見識を備えたエリートの集団であったと言える。終身制であるが故に1度議員になればその身分を失う不安はなく、そのため各議員には長期的視点に立ってローマの方向性を示すことが期待された(これに対し、官職はほぼ全て選挙で選出される)。


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ローマは民主共和政社会であり、執政官の選出、法律の制定など重要事項は市民集会により決定される。元老院は単なる諮問機関であり、権力は持たない。だが実際には、元老院はその権威により政治を主導し、実質は貴族共和制・寡頭制国家であったとされる[2]

[編集] 内乱の一世紀

元老院主導の政治体制は、ローマが単なる都市国家、あるいは都市国家連合の長であった頃は上手くいっていた。その頃の元老院議員=ローマ貴族は、貴族と言えど単なる地域の有力者に過ぎず、ノブレス・オブリージュによる義務を果たす事を求められる存在であった。特にポエニ戦争ではその機能を十全に発揮した。

しかしローマが地中海全域を勢力圏とする大国になるにつれ、ラティフンディウムの普及により貧富の差が拡大し、元老院議員=ローマ貴族は、特権にあぐらをかき、私利私欲を優先する存在となった。議員の質は低下し、体制も硬直化していった。特に属州総督の地位を利用しての蓄財は、共和政を通じての問題であり続けた。

そのような状況でグラックス兄弟はローマの抱える問題を見抜き、その改革に着手したが、護民官の立場の弱さ(護民官は武力を持たず、しかも元老院体制の外にあった)故に失敗する。そこから元老院派(閥族派)と民衆派の争い、内乱の一世紀の幕が開ける。

その中で、グラックス兄弟の失敗を踏まえ、武力を有し独裁官の立場で改革に当たったのがルキウス・コルネリウス・スッラとガイウス・ユリウス・カエサルである。スッラは元老院体制を手直しし、建前上は単なる諮問機関であった元老院に実質的な権限を付与し、その存続を図った。さらに定員をそれまでの300から600に倍増させた。騎士階級などの新興有力者を新たに元老院に取り込んだが、定員が増えることで議論百出の末に結論が出ない、といった弊害も出た。そしてカエサルは元老院体制の打倒と新体制の樹立を目指し、それが帝政に帰結した。


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[編集] 帝政時代以後

帝政時代になると、元老院はしだいに皇帝の統治に組み込まれていき、その地位は低下していった。また軍団勤務の義務も緩くなっていった。それでも五賢帝時代までは、「元首」である皇帝の正統性、後継者を承認(護民官職権授与)する機関として重要であり、皇帝の発した勅令も恒久法制化するには元老院の議決を必要とした。そして軍団叩き上げの人物でも政務に関わらせるために、皇帝の推挙によって元老院の議席を得たりした。トラヤヌスなどの皇帝たちも、元老院の権威を尊重しながら統治を行なった。また帝国の属州総督も半数は元老院に任命権があった。元老院が総督を任命する元老院属州は、皇帝が総督を任命する皇帝属州より統治が容易で経済力もある地域であり、元老院はいわば実利を握る立場であった。

しかし、続く軍人皇帝時代になって帝国各地の軍団が勝手に皇帝を擁立するようになると、帝位の承認機関としての地位も失なわれ、ローマ市の市参事会(市議会)程度の役割しか果たせなくなっていった。また、皇帝ガリエヌスの時代に元老院を軍務から締め出す法を可決したことで、軍務と政務のバランスの取れた人材を輩出する手段も絶たれた[3]

しかし、皇帝がローマ市から離れたことで、イタリア本土やアフリカでの元老院の影響力はむしろ増大した。また、イリュリア出身の氏素性が定かでない軍人上がりの皇帝たちは元老院との利害関係を持たず、元老院に関する問題については、軍に随行していた元老院議員や元老院からの使節団の意見が通りやすくなったと想像される。元老院が軍事からは締め出されていったのは確かであるが、政治的立場は従来とは異なる形で向上し、クラウディウス・ゴティクスやタキトゥス、プロブスに見られる元老院への敬意は、こうした歴史的事情を反映しているとも考えられる[4]。見方を変えれば、皇帝の地位が単なる軍事司令官に低下し、政治は元老院が主催する体制になったと言える。


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しかしながらディオクレティアヌスが軍人皇帝時代を終焉させ、専制君主制(ドミナートゥス)に移行すると、再び皇帝の地位と権威は向上し、元老院の地位は低下した。ディオクレティアヌスは属州を再分割し属州総督の権力を削減し、強固な官僚支配体制を確立したが、それは今まで半数の総督任命権を持っていた元老院の権力削減でもあった。

コンスタンティヌス1世は、自身もイリュリア出身でありながら元老院議員の再登用を進める。マクセンティウスを破りイタリアの支配者となった312年から326年までの間に次第に増員し、600名から2000名にまで拡大した。編入されたのは、主に騎士身分高官と都市参事会員層である。なお、この元老院拡充過程で、騎士身分はその固有の官職や称号を喪失し、身分としての特徴を失っていった。

ローマ元老院は476年の西ローマ帝国の滅亡後も存続しており、西ローマを滅ぼしたオドアケル、それを滅ぼした東ゴート王国も元老院を尊重する姿勢を示していた。そもそも「西ローマ帝国の滅亡」と言えど、単に西ローマ皇帝がその地位を失ったに過ぎず、元老院とローマの市民:SPQRが存在する限り、ローマは健在であったとも言える。しかし東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世による再統一事業はかえってローマを荒廃させ、6世紀末のローマ教皇グレゴリウス1世をして「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆かせるに至る。最終的にイタリア半島へランゴバルト人が侵入した7世紀頃になると、元老院は完全に消滅した[5]

[編集] コンスタンティノポリス元老院

330年のコンスタンティヌス1世による新首都コンスタンティノポリス開都に伴い、コンスタンティノポリスにも元老院が置かれた。ローマの場合と同じく、主に都市参事会員層が元老院議員となり、最初から皇帝の諮問機関として設立された。また、支持基盤を必要としたコンスタンティヌスが帝国東部を円滑に統治するため、伝統的勢力である都市参事会員層の支持を取り込み、恩恵を与える場が必要であった。


このコンスタンティノポリスの元老院は東ローマ帝国にも引き継がれ、皇帝の不在時に国家を代表する役割や、皇帝が後継ぎを指名せずに死去した場合に後継皇帝を指名する役割を果たした。

皇帝は「元老院・軍隊・市民の推戴によって初めて帝位の正当性を受ける」という不文律があった。これは前述のローマ元老院の伝統を引き継いだためである。

しかし、7世紀後半以降は一定以上の爵位を持つ高級官僚[6]を元老院議員とするようになり、元老院議員身分の世襲は認められなくなった。また、役割も儀式的なもののみとなった。しかし、あくまでも名目的ながら、東ローマ帝国滅亡まで元老院という機関は存続した。


  1. ^ 後にスッラの改革を経て、ほぼ自動に近い形で決まるようになる。
  2. ^ ペリクレスの全盛時代にアテナイへ視察団を派遣しているが、その制度を取り入れることはなかった。
  3. ^ 近年の研究では異説が出ている。詳しくはガッリエヌス#文武官の分離と歴史的意義を参照
  4. ^ 井上文則 『軍人皇帝時代の研究 ローマ帝国の変容』 151~158頁、岩波書店、2008年 ISBN 978-4-00-022622-6
  5. ^ "元老院(ローマ) - Yahoo!百科事典". 日本大百科全書(小学館). 2011年11月3日閲覧。
  6. ^ 9世紀頃の東ローマ帝国では上から8番目の爵位である「プロートスパタリオス」(筆頭太刀持ちの意)以上が元老院議員身分とされていた。この爵位はテマ(軍管区)の長官などの官職を持つ者に与えられていた。

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