日・中南米交流史概観
日・中南米交流史概観
近世の関係
1.コロンブスとジパンゴ
日本とラテンアメリカとは意外に浅からぬ縁で結ばれている。約500年前のコロンブスによる新大陸発見も、実はシパンゴ(またはジパンゴ、「日本」の中国語音に由来するといわれる)の黄金への憧れが発端の一つになっていた。コロンブスは、早くからシパンゴやキタイ(中国)に心を惹かれており、特にマルコ・ポーロの「東方見聞録」に「金で屋根を葺いた宮殿に王の住む国」として紹介された日本には強い関心を持っていた。コロンブスは、スペインのイサベラ女王の援助の下、アジアへの西廻り航路発見の旅に出るが、1492年、バハマ諸島に到達した時、航行距離から、日本が同諸島の近くにあると信じて探索に躍起となり、エスパニョーラ島で住民が黄金の装身具をつけていること、また、シバオという金山があること� �聞いて、これがシパンゴに訛ったものに違いないと考え、ついに日本を発見したと喜んだ。そして意気揚々帰国し、スペイン宮廷に対し「シパンゴの黄金」とともに東方世界への西廻り航路開拓の夢を果たしたことを報告するのである。彼の航海誌にもシパンゴの名がしばしば現れ、彼がいかにシパンゴの発見にすべてを賭けて一喜一憂したかがありありと窺われる。
2.スペインの東方政策と日本人
コロンブスの新大陸発見に続いて、スペインは直ちに征服事業を開始、1521年メキシコを占領すると、そこから西廻りでアジアに進出する政策に着手した。こうして、日本とラテンアメリカとの最初の接触が生ずる。 すなわち、アジアの香料を求めて次々とメキシコから遠征艦隊を派遣、この中には1542年のビリャロボス艦隊のように日本に関する情報の収集を特命されたものもある。1564年遂にレガスピー艦隊がルソン(フィリピン)に植民地を建設、太平洋の逆横断にも初めて成功し、以降ガレオン船によるマニラ・アカプルコ間の貿易航路が開かれることになる。1578年にイギリスの海賊がメキシコ沿岸で拿捕したガレオン船にも、クリストファー、コスモスという2人の日本人が乗っていて、その後この海賊船がブラジルを襲った時も同行していたとの記録がある。ほぼ同時期の1596年の日付でアルゼンチンのコルドバ市に残っている公正証書には、フランシスコ・ハポンという日本人奴隷が、ポルトガル人によってこの地で売り渡されたと記されて� �る。
3.長崎26聖人とメキシコ
昭和40年、長崎の26聖人記念堂が竣工した際、その献堂式に500人の巡礼がメキシコから参加して注目をあびた。これは、1596年土佐の浦戸に漂着したスペインのガレオン船サン・フェリペ号の取調べから豊臣秀吉がスペインの領土的野心を疑い、これに端を発した大弾圧によりいわゆる26聖人の処刑が行なわれた際、この中の一人がフェリペ・デ・ヘスス・デ・ラス・カサスという名のメキシコ人であったことが由縁になっている。この史実はメキシコではよく知られ、現在もクエルナバカにある寺院の礼拝堂の左右の壁全体に壮大な受難の絵が残っており、「日本」、「皇帝」、「太閤様」などのラテン語で書かれた文字が読み取れる。
4.徳川家康の外交政策とノビスパニア
パリで行うための最善のものこの時代の日本は、コロンブス以来の黄金の島としてヨーロッパ列強の注目の的であり、こうした背景の下に家康は、富強の源泉として早くから対外貿易に強い関心を示し、スペインの進んだ鉱山技術の導入にも熱心であった。マニラからやってくる宣教師の話から当時ノビスパニア(正しくはヌエバ・エスパーニャ)と呼ばれたメキシコの貿易基地があることを知り、これと直接貿易したいと考えた。関ケ原の合戦の翌年にはルソン総督ロドリゴ・ビベロに対する朱印船制度創設を告げた書状でノビスパニアとの修好の意を伝え、関東のどこにでも寄港してよい旨の朱印状も出している。1609年、奇しくもこのビベロがマニラでの任務を終えてメキシコに帰る途次、上� �国浦田尻に漂着すると、家康は彼と謁見して、メキシコを経由する対スペイン貿易の開始等を申し入れた。翌1610年、ビベロは田中勝介ら21名の日本人をともなって帰国の途についた。メキシコ副王ルイス・デ・ベラスコは、かねてスペイン国王に命じられていた日本近海の「金銀島」の探索の好機として、1611年、当時太平洋海域での航海技術にかけては第一人者といわれたセバスティアン・ビスカイノを答礼の首席使節として日本に派遣した。ビスカイノは、田中(前述)らをともない、スペイン国王フェリペ3世、王妃、皇太子の肖像画や1581年マドリード製の時計(現在久能山東照宮の宝物となっている)などの進物、家康宛ての返書をもたらしたが、肝心の貿易問題や鉱山・航海の技術協力は何ら進展させることなく、専ら金銀島の探 索に躍起となった。それにもかかわらず、家康はその後しばらくはノビスパニアに友好的な態度を採り続けていたが、1612年ノビスパニア総督に布教の禁止を通告して、滞日中のビスカイノを驚かせ、同年幕府の第二次アカプルコ向け派遣船も航海に失敗するなどして、次第に対メキシコ貿易の気運は失われていった。この背景に、1611年以来オランダとの国交が開かれて、新教国との間に布教なき貿易関係が進展してきたことがあった。
5.支倉常長のメキシコ訪問
国際的保養地として名高いメキシコのアカプルコ海岸に、1973年、仙台市の協力で支倉常長の銅像が建てられた。それより360年前の1613年、伊達政宗は、宣教師ソテロとビスカイノ(前掲)の2人のスペイン人の強い働きかけで、メキシコとの貿易開始の緒を開く目的を秘めてローマとスペインに使節を派遣することとした。支倉常長を団長として、前記の2人を含むスペイン人40名、日本人140名からなる一大ミッンョンは、3ヵ月の航海の後アカプルコ(メキシコ)に到着し、熱烈な歓迎を受け、ラッパや太鼓で迎える村々を通って威儀を正してメキシコ・シティに向かった。メキシコシティでは、サン・フランシスコ教会の近くの邸宅を宿舎としてもてなしを受けるうち、復活祭の荘厳な行事を目のあたりにした一行中の78名は、同教会 で洗礼を受けた。一行の大半はこのメキシコで3年を過ごすことになったが、常長ら20人は、プエブラを経てベラクルスから出帆、ハバナに寄港後スペインに到着、常長自身もここで洗礼を受け、ローマでも大歓迎を受ける。この間君名を辱めず使節として振舞うが、後にスペイン側の態度が変わり、1617年空しく同国を去って再びメキシコへ、翌1618年アカプルコを発ってマニラに向かい、1620年仙台に帰り着いた。しかし、この時にはキリシタン禁令公布など日本の政治情勢も一変しており、ノビスパニア貿易の夢は遂に実現しなかった。しかし、メキシコを挟んで2つの大洋を2度ずつ航海したこの一大壮挙は日本の外交使節の草分け、太平洋横断の先駆者としてはもちろん、日本とラテンアメリカの交流史上の一大イベントとしても長く記� �されるであろう。
6.鎖国時代の関係
1639年の寛永鎖国令以降は日本とラテンアメリカとの交流も空白時代を迎える。わずかに、オランダと中国に対し長崎で開かれた窓から海外の事情も細々と伝わり、たとえば1709年同地で刊行された西川如見の「増補華夷通商考」にはペルー、ブラジル、チリ、メキシコ等について簡潔な紹介がなされており、また新井白石も宣教師ジュアン・シドチからラテンアメリカのことも聞き知り、1715年に著した「西洋紀聞」の中でソイデアメリカ(南アメリカ)として、パナマ地峡、キューバなどにつき断片的な情報を書き記している。
一方、1738年メキシコでスペイン語による日本語文典がフランシスコ派の神父メルショル・オヤングーレンの手で刊行されている。メキシコに当時まだ対日関心が残っていたことを示す証拠である。
1793年石巻を出向した仙台の船乗り津太夫、儀平、左平、太十郎の4人が、難船してロシアに渡り、東洋に向かう同国の使節レザノフに連れられて世界を一周したが、その途中ブラジルのフロリアノポリスに71日間滞在したとの記録がある。また1841年兵庫の沖船頭善助以下13人がやはり難破してメキシコ船に救助され、同国カリフォルニアの町々を巡った後、日本に帰り着いたが、滞在中厚いもてなしを受けたと伝えられる。
7.幕府遣米使節のパナマ通過
アムステルダムからブルージュはどのくらいです 1853年のペリー来航によって鎖国の夜が開け、日米和親条約に続いて1858年日米修好通商条約が調印されると、この批准書の交換のため幕府は新見豊前守以下80人の使節団を米国に派遣する。一行は1860年品川を出発し、ハワイ、サンフランシスコ経由でワシントンに赴く途中、大陸横断鉄道もなかった時代のこととて、当時コロンビア領であったパナマまで航海し、1855年完成した地峡鉄道(運河の完成は1914年)を利用して大西洋岸のクリストバルまで行き、そこから再び迎えの米艦に乗船した。一行はまた訪米の帰途南下してブラジルを訪問、ジャワ経由で日本に帰国した。
1870年、イギリスの世界一周艦隊がブラジルのバイヤ港を訪問した折、日本からの練習生として薩摩藩前田十郎左衛門、伊予藩伊月一郎の2人が乗り組んでいたが、前田は同地で切腹自殺を遂げたという悲しいエピソードがある。
明治以降戦前までの関係
1.マリア・ルース号事件
開国後日本と最初の国交を持った国はペルーで、1872年のマリア・ルース号事件が発端になっている。これは横浜に入港したペルー船マリア・ルース号に乗っていた清国からのペルー向け労務者231人を巡って、寺島外務卿らが列国の応援を背景に同船エレロ船長の強硬な抗議を排し、裁判により日本法に照らして彼らを解放し本国に送り返し、日本の国際的地位を高めた事件である。この時ペルー政府は一旦は軍艦の派遣まで考えたが、結局翌年特命全権公使ガルシア海軍中佐以下10名を派遣して外交交渉により損害賠償などを求めた。この交渉は成功せず、その際両国間に修好通商航海仮条約が締結され、ここにラテンアメリカ諸国と明治日本との最初の国交が開かれた。こうして翌1874年にはラテンアメリカ初の駐日外交官エルモ� �レ代理公使がペルーから着任した。なおこの事件はロシア皇帝アレクサンドル2世の仲裁裁判に委ねられ、1875年の判決により日本側の勝訴で完結した。
2.メキシコ観測団の来日
1874年12月9日は金星が地球に最も接近、日本が観測上最適ということで、欧米の観測陣は早くから長崎で準備をしていた。遅れて来日したディアス・コバルビアス土木省次官以下のメキシコ観測団は長崎での設営の時間がなく苦境に立ったこの時日本政府は、外国人居留地外の滞留を認めなかった当時の政策にもかかわらず、横浜野毛山に設営を認め、我が海軍士官らの応援を送るなど、できるだけの便宜をはかった。このことはメキシコ側から深く感謝され、帰国後コバルビアスは日本の優れた国民性を讃えメキシコへの移住者受入れを政府に進言するなど、後のメキシコの親日政策の伏線になった。
3.メキシコとの平等条約の成立
明治外交の最大の問題の一つが、欧米列強との不平等条約の改正であった。日本が朝野をあげてこの問題に取り組んでいた時、1888年メキシコとの間に、アジア諸国以外とでは初の対等条約が締結され、全国民に喜ばれた。全文11ヵ条のこの条約は日本の法権に服することを条件にメキシコ国民の居住営業のため日本内地を開放し、領事裁判権を含まず、関税の最恵国待遇も条件付きとなっている。
4.高橋是清のペルー鉱山開発の試み
後に首相となり2・26事件で悲劇的最期を遂げた高橋是清は、かねてからラテンアメリカへの日本の企業進出の夢を抱いていた。一方、ペルーの実業家へーレンは日本農業移住者誘致を目論み、同国産業紹介の意味で銀鉱石の見本を日本側関係者に見せたところ、前山梨県令の藤村紫朗らが熱心に運動した。高橋は、偶然この計画に参加することとなり、開発会社の代表としてペルーに赴いた。この日本初の対ラテンアメリカ企業進出計画は現地調査の不徹底から失敗に帰したが、高橋の住んだ邸宅キンタ・へーレンは今日もリマ市の一角に跡をとどめている。
5.日清戦争とチリからの軍艦購入、エクアドルへの波紋
日清戦争に際し、日本は強大な清国北洋艦隊に対抗するため海軍力の強化に奔走し、開戦4ヵ月後の1894年12月、チリの軍艦エスメラルダ号を購入することに成功した。この時、チリは、戦争中のこととて国際法上の問題が起こることを避けるため、一旦エクアドルに売却するという形をとり、同艦はガラパゴス島に廻航されてエクアドル国旗を揚げた後直ちに日本国旗に取り換えた。しかし、このことはエクアドル国内で大きな波紋を起こし、独立以来政権の座にあった保守党は厳しい批判を浴び、これを機として自由党が立ち上がり、全国各地の武力衝突、ついにはコルデロ大統領の亡命まで惹き起こし、この後長く保守党は自由党に政権を譲ることとなった。
6.日露戦争とアルゼンチンの厚意
どのようにコロンブスがアメリカ先住民について感じた日露戦争における放順攻撃で日本は主力艦2隻を失い、来たるべきバルチック艦隊との決戦に備え、その補強のため必死に努力せざるを得なくなった。この時アルゼンチンは2隻の軍艦(「リバダピア」、「モレノ」)を日本に有償で譲渡し、日本朝野に深い感激を与えた。当時最新鋭のこの2隻の巡洋戦艦は「日進」、「春日」と名付けられ、日本海海戦で偉功を建てた。また、この時旗艦三笠艦上弾雨の中でアルゼンチンから特派されたドメック・ガルシア観戦武官が戦況に見入っていたが、ガルシアは後に同国の海軍大臣となった人物で、これらはその後の両国の長い友好の歴史において強い絆となったものである。
7.マデロ大統領の暗殺と日本公使館
メキシコで30年にわたるディアス独裁を革命により打倒し1911年大統領に選ばれたフランシスコ・マデロは、その後の政策の行き詰まりから国民の不満を買い、1913年遂に部下のウエルタ将軍に政権を奪われ、囚われの身となった。この時大統領官邸チャプルテペック宮殿から逃れ出た大統領夫人らは日本公使館に庇護を求め、堀口九萬一代理公使以下がこれを護り通し、メキシコ国民から人道的措置として永く感謝された。なお幽囚のマデロはキューバへの亡命を求めてその約束の保証人に堀口代理公使を望んだが、ウエルタの容れるところとならず、程経ずして暗殺の悲運に遭遇した。
8.エルサルバドルとの友好の始まり
1932年エルサルバドルのアラウホ大統領が青年将校のクーデターで倒され、エルナンデス臨時大統領が政権の座についた折、米国、中米諸国その他の各国は、革命政権不承認の原則をうたった1923年の中米条約を尊重して、いずれも承認を行なわなかった。ところが、日本一国のみがエルナンデスの就任通知の親書に丁寧な返書を寄せた。同国政府は直ちに日本政府承認の記事を大きく新聞に報道させ、周辺の国を驚かせた。このことは永く同国民の記憶にとどまり、後の両国の深い友好の絆の端緒となった。これは、米国務長官スティムソンの提唱した不承認原則を無視して、1934年エルサルバドルが満州国を承認した背景になっているとの説もある。
9.野口英世博士とラテンアメリカ
黄熱病の研究者として著名な野口英世博士は、1918年7月、初めてエクアドルのグアヤキル市を訪ね黄熱病研究を行ない、エクアドル名誉軍医外科部長、キト・グアヤキル両大学名誉医学博士号を贈られた。同国では今日、キト市内に博士の胸像が建ち、「野口英世通り」という名の通りまであって、永く博士との縁を懐かしんでいる。同博士がその後、1928年アフリカのアクラで倒れるまで、メキシコ、ペルー、ユカタン半島、ジャマイカ、ブラジルなど、ラテンアメリカ大陸の各地に偉大な研究の旅をしたことは広く知られている。
10.日本にきたタンゴ
19世紀末にブエノスアイレスの港に臨む下町ボカで生まれたタンゴは1910年代に流行、カルロス・ガルデルという不世出の歌手やロベルト・フィルポなどの名楽団が輩出し、今でも絶対的な人気の「ラ・クンパルシータ」や日本でも未だに人々の記憶にとどめられている「カミニート」、「エル・チョクロ」、「さようなら私のパンパ」、「ママ恋人がほしいの」など数々の名曲を生み、1920〜30年代には欧州でも流行した。日本には、パリ社交界のダンスの名手といわれた目賀田綱美男爵によって1927年に最初に紹介され、1934年ティト・モンパレス・タンゴ・アンサンブルというタンゴ楽団がレコードに初めて吹き込んだが、歌手とドラム奏者を務めたのはディック・ミネで、戦後も親しまれている「ジーラ・ジーラ」、「ア・メディ� ��・ルース」などが録音されて非常な人気を博した。1938年には藤原義江がアルゼンチンに渡って歌ったことや、桜井潔楽団の活躍を記憶している人もあるだろう。また、淡谷のりこなどが歌った和製タンゴも戦前から戦中にかけて国民を楽しませた。
11.戦前の移住
徳川幕府は、開国後間もない1866年、海外渡航の禁止を解いたが、今日残っている記録では、それから大分経った1887年、真地金蔵がアルゼンチンに永住を志して渡航したのがラテンアメリカ移住の嚆矢といわれている。また、組織的移住は、1897年、35人がメキシコへ渡ったのが初めてといわれている。戦前の移住者の活躍は、ラテンアメリカと日本との交流史の中で極めて大きな比重を占めている。
12.戦前の国交関係、条約締結の状況との第二次大戦による断絶
1873年のペルーとの条約、翌年の駐日外交使節の接受に始まる日本とラテンアメリカ諸国との外交関係は年を追って発展し、その後、メキシコ(1891年)、ブラジル(1897年)、チリ(1899年)、アルゼンチン(1905年)、大正時代ではボリビア(1918年)、昭和に入ってからはキューバ(1931年)、ウルグアイ(1933年)、コロンビア(1934年)、パナマ(1940年)からそれぞれ初代外交官が着任した。
一方、ラテンアメリカ諸国に対する日本からの外交使節の派遣は、1891年メキシコに建野公使(米国から兼任)を任じたのを嚆矢とし、その後、ブラジル・ペルー(1897年)、アルゼンチン(1902年)、チリ(1909年)、ボリビア(1919年)、パラグアイ・ウルグアイ(1921年)へそれぞれ初代外交官が任命され、1938年までにラテンアメリカ20ヵ国中ドミニカ共和国とハイチを除く全ての国に外交布陣が完了した。なお、日本は、ブラジルにつき1923年、アルゼンチンにつき1940年以降特命全権大使を派遣、ブラジル側も1924年同様の措置を取った。
しかし、1941年12月8日の太平洋戦争開戦にともない、同日メキシコ、コロンビア、コスタリカ、キューバ等9ヵ国が対日宣戦を布告または断交(後に宣戦)、その他の国も同年から翌年にかけてこれを行なった。しかし、チリは1943年1月まで断交せず(宣戦は1945年4月)、また、アルゼンチンも1944年1月まで断交せず、宣戦布告も1945年2月まで行なわなかったのみならず、布告後日本移住者をコルドバ州の保養地ラ・ファルダなどに集めた際も、その取扱いは丁重を極め、同国の親日的態度の好例として今日まで語り草となっている。
また、戦前に日本との間に結ばれた条約関係は、修好通商航海条約はペルー(1873年)、メキシコ(1888年)、ブラジル(1895年)、チリ(1897年)、アルゼンチン(1898年)、コロンビア(1908年)、エクアドル(1918年)、パナマ(1930年)、ウルグアイ(1934年)、通商条約はボリビア(1914年)、パラグアイ(1919年)、通商暫定取極はキューバ(1929年)との間で結ばれており、この他ペルーとの郵便協定(1909年)、メキシコとの医業自由業協定(1917年)、ブラジルとの文化協定(1940年)等があって、国民相互の交流の基礎が確保されていた。しかし、これらの条約関係も第二次世界大戦にともなう国交断絶により消滅した。
第二次世界大戦後の関係
1.飛躍的に増大した戦後の関係
第二次大戦終了時までの日本とラテンアメリカとの交流は、日本から移住した人々の活動が中核となって、これに外交関係、商取引関係が加わって、ある程度の規模に達してはいたが、国民的規模の交流というには未だしであった。しかし、戦後は、以下のように、国民各層の交流がラテンアメリカとの地理的・民族的・文化的等あらゆる隔たりを克服して一斉に推進され、まさに、これまで先人の努力により長い歴史を通じて少しずつ培われてきた基礎の上に国民的な広がりの交流が漸く開花期を迎えたといえよう。
2.サンフランシスコ条約による復交とその後の外交関係の発展
日本は1951年9月のサンフランシスコ講和会議を経て国際社会に復帰、ここに戦後の国力増進と対外発展のスタートを切った。この時同講和会議に参加して対日平和条約に調印し国交を回復した49ヵ国中、ラテンアメリカ諸国は実に20ヵ国全てで、1国の例外もなかった。また議場でのラ米各国代表の演説はことごとく対日復交を歓迎し、日本の国際社会復帰を祝福する言葉に満ちており、まさにその後の素晴らしい交流の進展を予見させるものであった。この中にあってメキシコが、対日講和についてまだほとんど国際的な気運の見られなかった1948年10月、第3回国連総会において逸早くこれを提唱し、早期講和への努力を訴えた同国の決議案は同年11月採択された。さらに1952年3月、メキシコが� ��年1月の英国に次ぎ2番目に対日平和条約の批准書を寄託したことは永く日本人の記憶に留められるであろう。
その後、ラテンアメリカ諸国は日本との外交関係強化を進め、戦後10年を経た1955年末の時点で、早くも、日本と相互に大使を交換していた国はアルゼンチン、ブラジル、メキシコ、公使を交換していた国はチリ、コロンビア、ドミニカ共和国、パナマ、ペルー、ベネズエラ、日本からは公使、先方からは総領事または名誉総領事派遣が4ヵ国、日本からのみ公使派遣が2ヵ国、先方からのみ総領事派遣が2ヵ国という状態に達し,戦前に比べて相互の外交布陣が一層整った。
2002年2月現在、こうした状況はさらに充実を見せている。日本はラテンアメリカ33ヵ国のうち、21ヶ国に特命全権大使(本任)を派遣して大使館を運営し、ハイチ、スリナムに臨時代理大使を派遣して大使館(実館)を持ち、ガイアナ、バハマ、バルバドス、グレナダ、セントルシア、セントビンセントおよびグレナディーン諸島、アンティグア・バーブーダ、セントクリストファー・ネイビス、ドミニカ国、ベリーズに兼轄大使館を置き、ブラジルにサンパウロ、リオデジャネイロ以下7総領事館を開設、また、国交は戦後独立したこの地域の全ての国々との間に開かれている。他方、同じ時点で、ラテンアメリカ22ヵ国が駐日大使館(実館)を開き、アンティグア・バーブーダ、ガイアナとトリニダード・トバゴが兼轄大使館を有するほ� ��、25ヵ国が領事館(名誉領事館を含む)を設けており、緊密な対日関係を保っている。
3.日本の国連加盟に際してのラテンアメリカの支援
1956年日本の国連加盟に際しては、ラテンアメリカ諸国が力を添えてくれた。まず同年12月、第11回国連総会に提出された「日本の加盟のための34ヵ国協同決議案」にはペルーが参加し、次いでブラジルなど6ヵ国も加わって積極的に実現に貢献してくれたのみならず、決議案の採択に当たりその他の13ヵ国も全て賛成票を投じてくれた。またこれが、その後の国連場裡での各種選挙、決議案採択などに際しラテンアメリカ諸国が一つの安定した勢力として一貫して好意的対日姿勢を維持してくれていることの発端でもあり、さらに国連の各専門機関、その他の国際機関における日本とラテンアメリカとの今日の幅広い協力の端緒ともなったのである。
4.日本のラテンアメリカ外交の展開
日本に対する関心の高まりを反映して、ラテンアメリカ諸国からの要人の訪日はますます増加する傾向にあり、97年から2001年までの5年間に26名の首脳級、23名の外相が来日している。日本からも、最近では、97年には天皇皇后両陛下がブラジル、アルゼンティンを、橋本総理がペルーを、98年には小渕外相がブラジルを訪問した他、2001年には常陸宮殿下がパナマを御訪問されている。
日本としては、ラテンアメリカ諸国の中長期的安定は世界の安定にとっても重要であるとの観点から、各種の協力を積極的に行ってきている。具体的には、中南米における大統領選挙に選挙監視団を派遣したり、貧困撲滅のための経済協力を行っている他、近年中南米地域を襲った地震等の自然災害に際しても迅速に人的、財政的支援を行ってきている。
さらに、日本は伝統的な友好関係を基盤としつつ、国際場裡におけるパートナーとして、33ヵ国を擁するラテンアメリカとの政策対話の強化にも努めており、ラテンアメリカの主要18ヵ国で構成されるリオ・グループとの外相レベルの対話を1989年以来ほぼ毎年実施してきている(2000年で第12回目)他、96年には、日・リオ・グループ経済ハイレベル会合を東京において開催する等、密接な政治対話を継続して行ってきている。
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